俺は中学1年の夏休み明けから(^_^;)
学校にほとんど行かなくなった(^_^;)
昭和42年当時はまだ不登校という言葉はもちろん登校拒否という言葉すらなかった<`~´>
先生から「なんで学校に来れないねん!」
「なんで集団行動が出来ひんねん!」
「なんで友達とトラブルを起こすねん?」と良く聞かれた!
その理由は自分でもよくわからなくて!
逆になんでみんなが!
なぜ学校に毎日来れるのか!
なぜみなが集団行動がとれるのか!
なぜみながトラブルや喧嘩をおこさずに過ごせるのか!
なぜ先生が毎日嫌な事があってもいつも前向きな姿勢で学校に来れるのか?
の事の方が俺にとってはとても不思議だったしスゴイという尊敬心もあった!
学校に対しても教師に対しても反感も反抗心も全く持っていなかったし(*^^)
先生の言うことはいちいちもっともで納得は出来るが!
教師の言う事はわわかっちゃいるけど実行出来ない(^u^)
学校を休む理由を何となくとか(^_^;)
パスするとは言えないので!!
苦し紛れに身体がしんどとい言えば「医者に連れて行ったろう、不規則な生活を正して規則正しい生活を送るように」と言われ(^_^;)
心配して見舞いに来てくれるし!
「学校に行っても勉強がわからない」と言えば(^_^;)
「放課後、勉強を教えたろ?」ととんでもない熱意の波状攻撃が飛んでくる!
先生の言葉に感謝はしたが・・・
理由なんかわからないがとにかく学校に行きたくない一心だった(*^^)v
言いがかり
俺が(^_^;)
それをすることによって先生からの指導は極端に減った。
俺は(^_^;)
心にもない教師批判や学校批判を繰り返した(^_^;)
教師の体罰、暴言、不適切言動について(^_^;)
不満と批判を連発して(^_^;)
男子だけ坊主頭の規則に対して(^_^;)
男女平等と言うなら(^_^;)
女子も坊主の規則にすべきだと(^_^;)
わけのわからない(^_^;)
理屈をこねて真面目な先生を困らせて(^_^;)
屁理屈ををいうなと激怒する先生もいたが(^_^;)
俺への先生からの(^_^;)
登校指導やかかわりは極端に減った!
単純な俺は調子に乗って学校にもたまにしか行かずに自由を得たような気分で。
同時に俺に関わってくれている先生たちをひどく傷つけていることや(?_?)
学校からは(*^^)v
反抗的、学校不適応、問題行動、問題児、という烙印を押されている事すら気付かない鈍感さと能天気だった!
それでも担任の日野谷先生は激怒しながらも(^_^;)
俺に熱心に関わってくれたと(^_^;)
今思えば感謝と残儀に耐えない・!
そうこう勝手気ままをしているうちに!
中一の11月に児童相談所に入所という事態を迎える!
児童相談所では(^_^;)
俺の都合の良い妄想話を(^_^;)
淡々と聞いてもらえる無条件の受容と共感に救われた気分になったち!
大津の中央児童相談所で何回か検査を受けた後に入所(^_^;)
当時の昭和43年ごろはまだ不登校という言葉はもちろん登校拒否という言葉すらなかった。
神田と言う児童心理学士の先生が(^_^;)
担当で俺と面談している時(^_^;)
「アメリカでは学校恐怖症と言う言葉があるらしいで。」
「長良君もその学校恐怖症と違うか?」と・・・言ってくれた!
当時は今のように1人の相談員が123人もの児童を!
担当していなかったのか?
児相自体が暇だったのか(?_?)
熱心に学校恐怖症について調べて語ってくれた!!
次の行き場を決める児童相談所での(^_^;)
観察期間の俺にとっては(^_^;)
渡りに船の(^_^;)
学校へいかなかった理由を正当化できる(^_^;)
便利な言葉が学校恐怖症だった!!
神田先生は真面目にドがつくような学者肌の堅い当時36ぐらいの先生で!
学校に行かないのは学校に行っている間に親がいなくなってしまう恐怖心があるから!
という本当は学校・・さぼりたいだけやのに(^_^;)
万引きは寂しさを紛らわすためのスリルを味わう手段やった!
本当は・・物がタダで手に入るお金を出して買うのが勿体ない物欲だけ(^_^;)
集団行動が出来ないのは大勢の人と接すると怖くなってくる!
本当は・・・協調性がないだけの話(^_^;)
等々の(^_^;)
俺のでまかせの話を(^_^;)
だまされてくれているのか(^_^;)
ほんまに俺の戯言を信じているのか(^_^;)
分からないが!!
うなずきながら熱心に疑問を持たずに俺の都合の良い作り話を(^_^;)
無条件の受容と共感に救われた気分になってしっかりやってみようかと思ったのは確だった!!!
俺はここで(^_^;)
3か月の観察期間を過ごして(^_^;)
年が明けて(^_^;)
1月の末(^_^;)
次に俺が行くところを決定する(^_^;)
審判の日がやってきた(^_^;)